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大炊御門家信 (江戸時代の公卿) : ウィキペディア日本語版 | 大炊御門家信 (江戸時代の公卿)[おおいのみかど いえこと]
大炊御門 家信(おおいのみかど いえこと〔『平成新修旧華族家系大成』(霞会館発行)による読み方〕、文政元年6月8日(1818年7月10日) - 明治18年(1885年)8月30日)は、江戸時代末期の公卿。仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三朝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで進む。父は右大臣大炊御門経久。兄に侍従大炊御門経長、左近衛権中将大炊御門経尚がいる。室は松下威久の娘。子に大炊御門経宣、師前(子に一条実孝)、幾麿、綾小路家政(綾小路家養子)がいる。 ==経歴== 大炊御門経長の三男として生まれたが、兄二人が早世したため、清華家大炊御門家の嫡男となった。文政2年(1819年)に叙爵してから清華家当主として早いスピードで昇進し、侍従・右近衛権少将・左近衛権中将などを歴任、文政11年(1828年)に元服し、天保2年(1831年)には従三位となり、公卿に列する。その後、踏歌節会外弁や権中納言を経て、安政元年(1854年)には権大納言に列した。安政5年(1858年)には日米修好通商条約へ勅許を出すことに反対するため、中山忠能・岩倉具視らとともに八十八卿の一人として抗議の列参をし、勅許を阻止した(廷臣八十八卿列参事件)。しかしそれが原因で同年井伊直弼による政治弾圧「安政の大獄」に連座する。文久3年(1863年)に右近衛大将・右馬寮御監となる。慶応3年(1867年)に内大臣、さらに右大臣に就任した。明治元年(1868年)に任職を辞す。以降は政界を引退し、京都西殿町北側で暮らした。子の幾麿が侯爵に叙せられた。
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